わたし、シーズン2

読書が趣味の40代主婦。きままな読書感想文を中心に日常を綴っています。家族は、夫と娘と元保護犬の愛犬ミィ。

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コロナ禍での看取り

 

2022年5月、祖母が104歳で亡くなりました。

 

98歳でインフルエンザから肺炎になり、もうヤバいのでは...?とみんな思っていたけれど、無事に生還。

 

退院後はそれまで通り母と2人で暮らしていたのですが、1年程でだんだんと認知症の症状がではじめました。

 

 

 

祖母の認知症を経験し、認知症はある日突然何もかも分からなくなるわけではなく、いわゆる「ボケてしまう」状態になるまで結構時間がかかるということを知りました。

 

祖母は、自分がいろんなことが分からなくなるのが不安だったのか、何度も何度も同じことを確認し、夜中も関係なく母を呼びつけては「今何時?」などと繰り返しました。(時間が分からなくなることがとても嫌だったみたいです。)

 

テレビが大好きで、韓流ドラマや大河ドラマを楽しみに見ていたのにテレビのリモコンの使い方が分からなくなった時もパニックを起こし、母に1日何十回も確認していました。

 

母はフルタイムで働きながらの介護だったので、みるみるうちに疲弊しノイローゼのようになり祖母にもきつく当たるようになりました。

 

私もなるべく実家に顔を出すようにしていましたが、母の祖母にきつく当たる姿をみて、祖母を施設に入れることを勧めました。

 

しかし母は、親を施設に入れることにとても罪悪感を感じていて、なかなか話は進みませんでした。

 

 

 

そこで、最初は週末のみのショートステイからはじめました。

 

週2~3回のショートステイと、それ以外の日は1日1時間ほどのヘルパーさんに来てもらう生活を2年ほど経て、もういよいよ介護者である母が限界を感じたので施設に入所。

 

それからも毎日仕事の帰りに母は祖母の元へ行き、夕食を食べさせて帰っていました。

 

そんな生活が1年程続き、コロナ禍になりました。

 

 

面会は、2m離れた場所でアクリル板を挟んで、週に1回1人まで15分。

 

 

コロナになるまでは、私たち家族もよく顔を出していたけれど、なかなか行けなくなりました。

 

それまでは家族のことだけは、ハッキリと分かっていた祖母でしたが...だんだんと母のことも私のことも分からなくなっていき、コロナ禍2年目に亡くなりました。(最後まで私の娘(ひ孫)のことだけはハッキリと分かっていました。)

 

 

 

お別れの日、それはある日突然やってきました。

 

夜8時頃、施設から母に「呼吸と脈が弱くなっています」と連絡がありました。

 

コロナ禍でもしものことがあった時は、1人までしか付き添えないと事前に通達されてはいたのですが、母・私・娘全員がコロナワクチンを2回(当時MAX回数)受けていたことから、3人での入室許可がでました。

 

部屋に着いた頃には、意識はだいぶ朦朧としていて呼吸も脈も本当に弱っていたのですが、まだ私たちのことを認識できて、返事をすることもできていました。

 

施設の方が私たち3人と祖母だけにしてくれたので、手を握り話しかけながら3時間ほどかけて最後の時を迎えました。

 

母も娘も泣いていたけれど、私は「まるでドラマみたいだなぁ...」などとぼんやりと思っていました。

 

最期は息が荒くなり...その後弱い呼吸...そして呼吸の間隔がとても長くなり、やがて止まりました。

 

それは絵にかいたような「安らかな最期」だったと思います。

 

泣いている2人のそばで、私はまた「あぁ...こんな最期なら死ぬのも怖くないかもしれないなぁ...」とぼんやりと思っていました。

 

 

 

当日のお昼ご飯も食べて、家族水入らずで静かに見送られて...本当の祖母の気持ちは分からないけれど、それでもとても幸せな最期だったと思います。

 

コロナ禍真っ只中での看取りだったけれど、施設の方のご配慮や、たまたま全員が揃っている時間にその時が訪れた事などの色々な条件が重なり、私たち家族にとって、とてもよい看取りをさせてもらったと思います。